小児悪性脳腫瘍 脳幹グリオーマ 闘病記-信吾ブログ-

妻のがん闘病記中に知り合った信吾君一家。
小児悪性脳腫瘍 脳幹グリオーマ 闘病記-幸平ブログ-
ご家族の強い希望で、信吾君が闘ってきた小児悪性脳腫瘍(脳幹グリオーマ)の闘病記を伝え残していきます。

9歳の誕生日前に発病し、1年1ヶ月戦い抜いた信吾君。

彼の闘った証、命の戦士のがんばった記録を読んでください。

信吾君について

信吾君とは私(筆者)の妻の大腸がん闘病中に知り合いました。

知り合った時は10歳で、いつもにこにこしていて、ひょうきんなところもあり、抗がん剤で脱毛してしまった頭に自分で顔を書いて看護婦さんたちを笑わせていたりしました。

口癖は「がまん、がまん」。

どんな痛い治療にも「がまん、がまん」と口に出して耐えていました。

元気で頑張りや、気立ても優しくてちょっぴりシャイ。そんな男の子でした。

※闘病記は少しずつ更新していきます。

書きたいことや残したいことが急に出てくることで構成が変わることがあります。ご了承ください。

小児がん発病のきっかけ

信吾君の異変に気づいたのは、学校の先生でした。

「よく転んだりふらつくことが多くなっています。疲れがでているかもしれません」と家庭と学校との連絡ノートに書いてあったのです。

信吾君は家では宿題しているか、本を読んでいるかゲームをしているかで家の中を歩き回ることが少ない子だったので、家庭では気づけなかったそうです。

そしてまもなくして、信吾君の目の焦点がさだまらないことが増え、病院に連れて行くことにしました。

お母さんはこのとき「目の病気でふらついている」くらいしか考えていなかったそうです。

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病名発覚と余命宣告

かかりつけの小児病院に連れて行くと、脳の病気かもしれないといわれ、大学病院への紹介状を出され、大学病院でMRIなどの検査を受けました。

そして下された診断は「脳幹部グリオーマ」

腫瘍は浸潤性(染み込むように広がっていくこと)のため、完全に取りきることはほぼ不可能であること、確立した治療法がまだないこと、同時に余命は長くて1年と告げられました。

病名発覚と同時に余命宣告。こんな最悪な宣告を受けるとは想像すらできず、家族最悪の日となりました。

来年の今頃は息子がいないかもしれない。

避けられない現実にどうかなってしまいそうでした。

セカンドオピニオン(母の手記)

息子・信吾の診断が、余命が何かの間違いであってほしくて、受け入れられなくて、たくさんの病院を回りました。

予約して受診して、検査して。

しかしどこでも結果は同じでした。

治療法も放射線治療がメインで、どこの病院でも行う治療技術に差はないので、自宅から一番近い病院に通院したほうが良いと言われました。

すがる思いで病院を回り、治療法を本やネットで探し回りました。

しかし答えは同じです。

確定的な治療法はなく、延命やQOL(生活の質)を向上させるための方法しか見つかりませんでした。

その間にも息子のふらつきは大きくなり、物が二重にみえてしまう、ブレてみえてしまう症状まででてきました。

余命宣告されたあの日を皮切りに、息子の容態は目に見えて悪くなりました。

我が子が余命宣告され、日々弱っていく現実、あまりの進行の早さに、心も身もついていけませんでした。

息子と同い年の子供を前向きにみることができず「どうしてうちの子が」「どうしてあの子じゃないんだろう」と負の感情ばかりが芽生えていました。

できることなら私が代わりたい、代わってあげたいと何度思ったでしょうか。

最終的には最初に診断して頂いた大学病院で本格的に治療と入院をすることになりました。

久しぶりの学校

小児悪性脳腫瘍 脳幹グリオーマ 闘病記-信吾ブログ-
病院巡りと検査ざんまいの日々を送って学校をずっと欠席していた息子ですが、久しぶりに学校へ行きました。

元気な時はサッカーが大好きで、本田圭佑選手の大ファンな息子。

車椅子や寝たきりになることが遠くない未来にある現状、元気なうちに1日でも多く、学校にいき、友達と遊んで欲しいと願いました。

しかし、ふらつきと目の見えにくさで学校にいっても思うように遊べないことにストレスを感じてしまいました。

結局学校にいけたのは1週間ほどでした。

クラスメートや担任の先生には入院中に励ましのカセットテープやDVD、寄せ書きを贈っていただきました。

どれだけ息子の励み、楽しみになっていたかわかりません。

本当にありがとうございました。

家族との思い出作り

小児悪性脳腫瘍 脳幹グリオーマ 闘病記-信吾ブログ-
病気が発覚してから3ヶ月経たないうちに、息子は寝たきりになってしまいました。

しかし車椅子生活の間はできる限り色々なところへつれていきました。

サッカーの試合の観戦や、テーマパーク、水族館、温泉(カテーテルの都合で制限はありました)など、本人が行きたい場所、食べたいものも可能な限りかなえました。

元々息子は欲があるほうではなかったので、本人が何を望んでいるかを考えるところからはじめなくてはいけませんでした。

旅行先で楽しんでいる様子をみるたびに、「この子はここにあと何回こられるだろうか」「この笑顔がみられなくなる日がくる」という思いが去来し涙が出そうになることも多々ありました。

しかし、息子の前では笑顔でいようと夫婦できめていたので涙をこらえるのに必死でした。

そして、病状の進行と共に、入院生活を送りながら、外出許可をもらって思い出を作る方向へとかわっていきました。

この病気は、完治への治療ではなく、病状の進行を抑え、いかに残された時間を延ばし、有意義に過ごすかに重点をおく治療でした。

親にとって、完治の見込みがない治療のために、我が子を苦しめることは、身を裂かれる思いでした。

信吾永眠

亡くなる1週間ほど前から高熱と痙攣が続き、意識も朦朧としている時間が長くなり、呼びかけにもほとんど反応しなくなりました。

往診にきてくれた医師(このころは自宅看護で訪問看護をしていました)にも、もう数日、早くて今日明日と言われていました。

息子の友達や先生、親戚や従兄弟たちも息子に会いに来てくれ、涙涙の最期の別れをしてくれました。

「意識が無くても、反応がなくなっても、亡くなるその瞬間まで耳はきこえている」そう看護婦さんが仰ってくれたので、最期まで家族でずっと声をかけ続けていきました。

「しん、おとうもおかあも、そばにいるよ」「信吾、わかるか?きこえるか?みんないるぞ」「信吾、大好きだよ 愛しているよ」「にいちゃんにいちゃん(弟)」

沢山沢山声をかけ続けました。

夕方、家族が夕飯の準備をしていたころでした。

心電図と呼吸の数値はどんどん下がっていき、アラームが鳴り響きました。

「信吾!信吾!」私たちは急いで医師に電話し、息子の手をさすって呼びかけ続けました。

『フゥ~~』と大きなため息をついたと思った瞬間、心電図の波形が無くなりました。

その数分後、医師が到着し、信吾を診ていただき、告げました。

「19時47分です…」

そのときのことははっきり覚えていません。

今その瞬間まで必要だった、動いていた心電図や呼吸器、点滴の機材が片付けられていくのを現実感なく眺めていたのを覚えています。

お別れ 父の手記

正直言って、通夜・葬儀のことは断片的にしか覚えていません。

喪主として勤めを果たし、戦い抜いた息子を堂々と送り出さなければという思いだけでした。

葬儀に派親戚だけでなく、たくさんの学校の友達、習い事の友達、そして闘病生活で知り合った人たちが別れにきてくれました。

一番の親友であるトモヤくん(仮名)が涙ぐみながら読み上げた手紙「ずっとずっと信吾はぼくの友達です。親友です。」は本当にうれしかった。

トモヤくんをはじめ、関わってくれた人たちに何らかの形で残ってくれるのなら、息子も喜ぶことでしょう。

斎場の中にはいるのに待つことになり、列ができてしまうほどでした。

信吾はこれだけの人に愛されていたと実感することができました。

お棺には友達からの寄せ書きとサッカーの試合で活躍している写真を収めました。

出棺の時、妻が倒れてしまう事態になりましたが、葬儀自体は滞りなく進められました。

火葬で空に舞っていく煙をみて、信吾は思い切り空を駆け回っているだろうか、大好きなサッカーを自分の足で思い切りやれているだろうかと思うばかりでした。

さいごに 天国の息子へ

小児悪性脳腫瘍 脳幹グリオーマ 闘病記-信吾ブログ-
10年という息子の人生は時間で言うと本当に短い時間でしたが、密度の高い誰にも負けない人生だったと思います。

人を思いやる心、優しさ、感謝の言葉の大切さ、そして何より、平凡な毎日がどれだけ幸せなことなのかを教えてくれました。

これからは息子がお世話になった分、同じ病気に苦しむ子供たちとそのご家族の力になるような人生を歩んでいきます。

最後に、信吾へ。

生まれてきてくれてありがとう。

怒ってばかりのガミガミ母ちゃんだったけど、信吾の母ちゃんになれて幸せでした。

まだまだ信吾のいない生活に慣れることはないけれど、弟の隼也がサッカーボールを蹴っているのをみると、そばに信吾がいる気がします。

いつかまた会える日まで、痛みのないお空でのんびり家族を見守っててね。

コメント

  1. 小野 敏彦 より:

    こんにちは。
    ブログを拝見させて頂きました。
    信吾君 今頃グッスリと休めている事でしょう。
    実は私の妻も約2年半前に「グリオーマ神経膠腫」のステージ3-4で、当時2年半の余命宣告を受けました。
    手術は 東大医科研にてお世話になり、当時の後遺症として、失語、麻痺等のリスクが高いと言われましたが、化学療法と放射線療法の治療にて 幸いかそれらの後遺症も出ず、約2年間はほぼ普通の生活をしていましたが、「いつか彼女の居ない日が来てしまう…」という思いは ひと時も頭から離れませんでした。
    そして とうとう 先月の9月4日の19時45分に47才にて永眠しました。

    ただ、幸いにも 中2の娘、高3の息子、そして夫の私にみとられながら…。
    本当に、「スゥ〜」っという感じで 苦しまずに眠るように。

    半月程は 妻が亡くなったというより、とてもとても大切な部分がゴッソリと無くなってしまった様。
    あの病院のあの病室にまた行けば、まだ妻が居る。様な…。

    そして 今少しずつ彼女の死を感じ始め、ちょっと辛い日々を過ごしてます。

    でも、信吾君同様に妻も頑張りました。
    きっと天国で 暖かい笑顔で見守っていてくれてますね。
    そして、やっとグッスリと眠れているんじゃないかなぁ。
    一方通行なだけで、きっと我々の言っている事も分かっているはずですよね。

    私ももう少し時間が掛かるだろうけど、妻に恥ずかしくない様、そして子供達の為にも 涙を拭って行きます。

    お互い 頑張りましょう。