かけがえのない娘の命をうばった「がん」は、数年後、妻の命も奪いました。
妻は大腸がんでした。
発覚したときは既に末期で、前向きな治療法はとれませんでした。
妻が最期まで生き抜いた証をここに残します。
はじめに
このブログ記事を読んでくれている人は、どんな形であれ「がん」と関わらざるをえなかった人たちではないでしょうか。
今闘病している人、身内ががんになってしまった、自分ががんになってしまったなど、様々な状況でがんと向き合っている人たちだと思います。
はじめに言っておきたいことがあります。
娘や妻の様になると思わないで下さい。
決して自分で命の期限を決めないで下さい。
あくまでこういうケースもあるということです。
私は医療従事者でも無いどこにでもいる中小企業の営業マンで、医療的な知識はありません。
でも、家族でがんと戦ってきた中でどう接すればよかったのか、愛する人と限られた時間を生きることの意味を、私なりにみつけてきたつもりです。
そんな素人の文章ですが、どうぞお付き合い下さい。
娘の闘病記と同じく、少しずつ書き足していきますので、ちょこちょこ見に来てくださると嬉しいです。
娘の闘病記はこちらです。
>>娘のがん闘病記~白血病発病から最期まで~
闘病を通して、あってよかった、介護が楽になった便利なアイテムがいくつかありました。
参考にしてみてください。
参考がん闘病の便利グッズ・役立つアイテム5選。
妻のがん闘病記ブログ
- 症状と発覚まで。
- 入院
- 余命宣告
- かけがえのない時間
- 永眠
- 葬儀
- 人はいつか立ち直れる
妻のがんが発覚したときは既に末期で余命5ヶ月でした。
まだ体力がありましたから、できるかぎりの場所に連れて行き、可能な範囲で好きなものも食べてもらいました。
大好きなスポーツ観戦にいったり、アミューズメント施設にいったり、ドライブしたり。
妻と過ごした最後の数ヶ月は一生分の愛情を注げたと、今は思えます。
症状と発覚まで
「おなかが張っている気がする」妻が異変を私に伝えた第一声でした。
元々便秘気味で、痔があったこともあり、血便がでても「また痔がでたのかな」と市販薬を塗って過ごしていたようです。
そしてある日、腹部がねじられるような強烈な腹痛が起こり、至急病院に行きました。
腹痛の正体は「腸閉塞」だったのですが、その腸閉塞を起こしている原因が「大腸がん」でした。
既に末期で、前向きな治療ができない状態でした。
私たち夫婦は言葉を失いました。
そして同じ「がん」で失った私たちの愛娘のことを思い出していました。
また「がん」が私の大切な家族を奪おうとしている。
なぜ。
なぜ。
このときの詳細をこちらにも書いています。
>>大腸がんはどんな痛みか。症状と血便-女性(妻)の闘病記-
入院
入院は手術の2日前になりました。
入院して手術に向けての精密検査を受け、手術の説明、抗がん剤や緩和ケアなどの今後のできうる治療の説明などでした。
手術もがんを取りきれるかわからず「厳しいと思ったらそのままおなかを閉じます。手術が早く終わったらそういうことです」とも言われました。
妻にはまだ末期がんの可能性についてはこの時点では言いませんでした。
手術や抗がん剤治療の結果によってはよくなるかもしれない、という希望をわずかながら持っていた、持っていたかったからです。
トイレに行った妻は下血をみて驚いていました、そしてこれだけの下血に関わらず痛みを伴わないことへの不気味さも訴えていました。
手術と余命宣告
手術は悲しいことに1時間弱で終わりました。
それは、がんが手術によって除去不可能だったこと、すなわちもう妻は長くないということを示していました。
「余命はもって5ヶ月。緩和ケア中心に、残された時間、ご家族と思い出を作っていってください」
先生は、まだマスクやゴム手袋をしたまま、今後の説明をしてくれました。
しばらくして麻酔から目を覚ました妻が私に尋ねました「手術はどれくらいだったの?」
1時間足らずだったとは言えなかった。
「そうだね…結構かかったよ」と答えるのが精一杯でした。
余命宣告については、妻には告知しないことに決めました(このときは)。
それから、妻に悟られないように、家族や周囲に話をして、思い出を作れるように動きました。
このときの私は、再び家族を失う恐怖と戦っていました。
そんな中、同じ病棟で知り合った信吾君。
信吾君は悪性脳腫瘍と闘いました。彼の明るさと前向きな言葉に何度救われたでしょうか。
彼の戦い抜いた日々を残していきますので読んでください。
>>小児悪性脳腫瘍 脳幹グリオーマ 闘病記-信吾ブログ-
かけがえのない時間
おなかをあけて縫っただけの手術だったので、10日ほどで外出が許可されるようになりました。
この外出が妻は本当に楽しみで、大好きな映画をみたり、植物園に行ったりと思いつくままにいろいろな場所にいきました。
同時に抗がん剤治療を開始していたので、退院はできませんでしたが、週4~5日は外出許可を貰って外出していました。
手を繋いで買い物行くようになったのもこのころです。
発病前は妻に言われても恥ずかしくて断っていたのですが、「もうこの手を繋ぐ時間は限られている」と思うと…。
あの手のぬくもりを私は忘れません。
外出して喜ぶ妻の笑顔をみるたびに「このまま時間がとまればいいのに」と何度思ったでしょうか。
夫婦になると、愛情表現や感謝の言葉を伝えるのがおろそかになりがちです。
どんな形で別れのときが訪れるかわかりません。
愛する人への愛情表現は積極的に行って欲しいと思います。
「愛しているよ」「いつもありがとう」「結婚してくれてありがとう」「幸せだよ」
いつでも伝えられる、わかってくれているからわざわざ言う必要がない、そう思わないで下さい。
どんどん伝えましょう。伝えられる時、伝わる時は限られています。
これを読んでくださっている方、明日にでも、今すぐにでも愛する家族に感謝と愛を伝えてください。
伝えられなくなってからでは遅いのです。
本人への告知
外出許可を沢山もらい、いろいろなところに妻と行きました。
それと同時に妻は「がん治療がこんなに外泊多いわけがない」と勘ぐるようになってきました。
話さなければいけない、と私は覚悟をしました。
主治医が「どうしても話せないなら、私が話をします」と仰ってくれましたが、夫として、私が話しますと告げました。
『残念ながら手術できる状態ではなかった。余命ももって数ヶ月(明確な数字は言えませんでした)。でも医療は格段に進歩している。一緒にがんばろう』と。
妻は「やっぱりね…でもはっきりきけてよかった。死ぬのは怖くないよ。あの子(娘)に会えるんだから」と寂しそうに病室の窓に視線を向けてつぶやきました。
そして、私が帰ったあと、ベッドの中で声を押し殺して泣いていた…と看護婦さんからききました…。
娘の時と同じだ。
私は、何もできない。何もしてやれない。
せめて、妻の前では常に笑顔でいよう。
そう心に決めました。
このときに妻が書き留めていたノートや話をした内容を書き留めました。
>>がんと診断されたとき、3つのやるべきこと、実際にやったこと。
そして同時に、妻に離婚を告げられました。そのときのことを書きました。
>>妻や夫が癌になったら。離婚を考えてしまうとき。
2回目の新婚旅行
いよいよ外出許可がもう下りなくなる(病状が数字として悪くなってくる)傾向がでてきたとき、一度だけ仮退院しました。
そのときに一度だけ飛行機に乗って旅行にいきました。
妻がどうしても行きたがっていた新婚旅行先でもあった沖縄でした。
色々と制約はありましたが、妻は「2回目の新婚旅行だね」と笑ってくれ、本当に心に残る思い出となりました。
>>がん患者が飛行機に乗る時に知っておく事と診断書の出し方。
もうほぼ打つ手はないと言われても、家族としては一縷の望みにすがりたいのは当たり前です。
気休めでもいい1日でも外出許可がでる日が延びればと、これをネットで見つけ、早速買って妻に飲んでもらいました。
【国産姫マツタケ:姫マツタケ エキス顆粒】
わずかではありますが、妻の顔色が良くなり、妻自身も「調子が良くなった気がする」と言ってくれました。
また、家でも簡単に作れる野菜スープ、果物ジュースも毎日作って一緒に飲みました。
>>がんの食事療法と実際に効果があったこと。「野菜」の生かし方。
外出許可がでた期間が予定より伸び、2度目の新婚旅行ができたのはこれらのおかげだと思っています。
永眠
妻は日々強まるがんの痛みに対し、鎮静をかけて欲しい、眠るように逝きたいと言っていました。
その言葉を尊重し、モルヒネの量を増やしていくことで次第に眠っている時間が増えていきました。
鎮静をかける前、これまでお世話になった人たちにお礼を言い残し、鎮静をかけていきました。
本当にここまでよく頑張ってくれました。
鎮静をかける前、こう言いました。
「Makiを失い、私もがんになった。がんに翻弄された人生だった。ねえあなた、私悔しい」と。
搾り出すように言ったその言葉は、今も私の耳にこびりついています。
最後は眠るように息を引き取りました。
看取りに関しては悔いはありませんでした。
ただ、ただ、生きていて欲しかった。
葬儀
葬儀は生前の妻の意向でかざりっけのないごくシンプルなものになりました。
お世話になった方々へ向けた遺言の手紙を読み上げたときは嗚咽で言葉になりませんでした。
友人と旅行にいったこと、恩師との思い出、そして私との出会いと娘を授かったことの感謝…。
苦しい中、死の恐怖の中でさえも、周囲への感謝の気持ちを持ち続けた妻の胸中…察するに余りあります。
出棺時に大好きな演歌歌手の曲と、娘との思い出の曲であるポップス曲を流してもらいました。
納骨を済ませ、病院への支払いも済ませ、家に帰ってくると「おかえり!」と言ってくれる人がいない。
犬と私だけの生活。誰もいなくなってしまった。
ただただ喪失感にとらわれ、これから先数ヶ月の記憶は曖昧です。
ただ仕事して食べて寝る。それだけのルーチンワークでした。
そして、仕事すらも休みがちになっていくのでした。
葬儀もそうですが、故人の遺品整理をすること、これは私にとって非常につらいものでした。
遺品整理は妻の意向でもありましたが、服1着、ハンカチ一枚に思い出があり、ひとつひとつ手にとるたびに涙があふれて手がとまり、作業になりませんでした。
こちらにそのことについて書いています。
>>末期がんの家族と葬儀について考える
人はいつか立ち直れる
妻が旅立ってしばらくの間の記憶は正直ほとんどありません。
仕事も休みがちになり、ふさぎこんでいたところを妻の親戚の支えで、がん家族相談センターなどのカウンセリングを受けるようになりました。
ふさぎこんでいても妻は帰って来ない、あの生活は戻らないのは頭ではわかっていました。
しかし娘を過去に失い、そして今、妻まで失った私には今を生きようという覇気がありませんでした。
社会復帰という意味で、立ち直るのは、周囲の協力のおかげで時間はかかりませんでした。
しかし本当の意味での立ち直りにはまだ至ってないと感じています。
見かねた周囲の人が縁談を持ちかけてくれたこともありました。
でも妻や娘の代わりなんてどこにもいないんです。
悲しみというのは陥った人じゃないと分からないものです。
時間が解決するという言葉がありますが、解決しないどころか悲しみが深まるものもあります。
それは仕方がないんです。
こうやってブログに思いや感じたことを残すたびに、少しずつですが、家族の遺品をみたりすることができるようになりました。
これも私にとって立ち直るために必要なことなのかもしれません。
読んでくれてありがとうございます。
コメント
母を2ヶ月前に肺がんで亡くしました。検査した時にはもう手遅れで「あと2~3日でもおかしくない。」と言われたけど、1年と5ヶ月生き延びる事が出来ました。
最後の5ヶ月は「今後をどうしますか?」って曖昧な言い方で「もう治療方法がない」と知らされ、自宅で在宅介護をしました。
余命は言われなかった。きっと先生の優しさもあったと思うけど、全身に回った癌にどの程度持つのかははっきりしないのもわかります。
亡くなる一月前にせん妄の症状が出ました。
祖母(3年前に亡くなってる)に会いに行くと言って出かけようとしたり。
少ししたら看護師さんと話して戻ったり。
そんなに頻繁には起きなくてだから、母は最期まで母だったと思いたいけど。
痛みを取り除くために使ってもらった薬の最後は医療麻薬の強めのやつ。
母は私を、私として認識してたのかもわからない。
寝むるように最後の時まで私を泣かせて亡くなった。
後悔はどうやったら消えますか。