小児がん闘病記~白血病発病から最期まで~

あまり思い出すことのなかった、娘のがんの闘病記について、ブログ代わりに書き残します。

娘のがん闘病記~発病から最期まで~

記憶を整理、思い出しながらなので辻褄が合わない、おかしい箇所があるかもしれません。

娘ががんばった証を読んでください。

そして…最期まで頑張りぬいた娘をどうかほめてやってください。

はじめに

娘の闘病記録は妻がつけていました。

ノートにして5冊くらいありました。

娘の逝去後も1冊分つけていたと記憶しています。

これらの闘病記録ノートは妻ががんで亡くなったとき、妻に持たせて火葬しました。

それが永眠した妻の希望でした。

今頃、天国で娘と読み返しているかもしれません。

そのため、手元にノートがないため、記憶を探りながらになります。

後から書き足す前提で書くので、ちょこちょこ読みに来てください。

ちぐはぐしていてもご了承くださいね。

妻の闘病記ブログはこちらです。
>>妻の末期大腸がん闘病記-症状と発覚、永眠まで-

娘の闘病記ブログ

  • 娘の誕生と発病前まで。
  • 発病
  • 病名確定
  • 闘病生活
  • 「わたし、しぬの?」
  • 治療を諦めて、娘のやりたいことを。
  • 娘との思い出作り。
  • 最期
  • 最期(2)

娘はMakiといいます。
漢字では「真希」と書きます。

純「真」な優しい心で、周りの人に「希」望を与えられる子になるようにと願いをこめました。

男の子まさりのおてんばな子でしたが、動物が大好きな心の優しい子に育ってくれました。

娘の誕生と発病前まで

娘のがん闘病記~白血病発病から最期まで~

最愛の妻と大恋愛の末結婚した2年後、娘は生まれました。

2640gで、元気な産声をあげてくれました。

どちらかというとおてんばで、男の子とちゃんばらごっこやかくれんぼをするのが大好きな子でした。

外で遊ぶのが大好きで、幼稚園から毎日のようにどろんこで帰ってきたのを覚えています。

妻は「今日も沢山遊んだね~」と嬉しそうに洗濯していました。

そんなどこにでもいる元気な、カレーライスとドラえもんが大好きな女の子でした。

発病

「その日」は突然やってきました。

その日は朝から元気がなく、家でずっとごろごろしていました。

夕方になると熱が出てきて38度前半台。

先日プール開きで沢山泳いだから風邪を引いたのかな?という認識でした。

その後、市販の風邪薬を飲ませて一旦熱は下がるものの、また翌日ぶり返すといったことを2回繰り返しました。

今思えば、すぐに病院に連れて行くべきだったのです。今でも後悔しています。

そしてかかりつけの小児科に。最初の高熱から一週間近くたっていました。

その間、娘はだるそうなことが多く、外で遊ぶことはありませんでした(風邪なので仕方ないと思ってました)

先生は娘を診察して一言「これは風邪の熱じゃない。大きな病院で詳しく検査してもらってください」と、その場で大学病院に予約を入れるよう言われました。

この時期の詳細をこちらに書いたのであわせて読んでください。
>>白血病の発覚までときっかけ-小児がんで永眠した娘の闘病ブログ-

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病名確定

予約日に病院にいきました。

ここまでの間、病院に連れて行ったのはすべて妻で、私は仕事があり、付き添うことはできませんでした。

血液検査をした結果、白血病の疑いも出てきてさらに詳しい検査をするためそのまま入院になりました。

そして、検査入院中に行われた骨髄検査で診断が確定しました。

このとき「検査結果と説明をしますので、ご主人を呼ぶことができますか?」といわれ、私が呼ばれました。

検査結果は…白血病でした。

しかも骨髄のなかの90%が白血病細胞で、このまま入院を続けて治療をしなければいけない、といわれました。

もう何を言われているのか全くわかりませんでした。

白血病?この子が?

風邪気味だけど元気だしそんな病気のはずはない!

そんな思いが頭の中でぐるぐる駆け巡っていました。

「絶対にだいじょうぶ。必ず治る」と何度も自分に言い聞かせ、せめてこの子の前では笑顔でそばにいてやろうと涙を拭いて決心しました。

娘はまだ幼くて病名の告知を最期までしませんでした。

ケースバイケースですが、我が子への告知について、家族で話し合う場は必要と感じます。
参考小児がんを告知するタイミング、年齢と意味-体験談を通して-

闘病生活

闘病生活は過酷なものでした。

毎日のように痛い注射をして、点滴に繋がれてベッドの回りだけが娘の生活スペースでした。

少しでも入院生活を楽しんでもらえるよう、ベッドの上で快適に過ごせるよう、おもちゃや絵本、ゲームなど、できる限り買い与えました。

娘は生まれつき血管が細い上、採血と注射の繰り返しで、すっかり血管が細くなり、手の甲や足から点滴をするようになりました。

特に手の甲はものすごく痛いらしく、処置室から「いやだー」「いたいいたいー」と悲鳴が聞こえてきました。

その中でも娘が一番嫌だった検査は「マルク(骨髄穿刺)」です。

背中に太い針を入れて骨髄を抜いたり、必要であれば薬を注入します。

これは大人でも悲鳴をあげるくらいの痛みです。

明日マルクだよ、と先生告げられた時の娘の「マルクするの…?」と目に涙をためて悲しげにきいてきた表情は今も忘れられません。

それから、マルクは事前に告知せず、処置直前に言うことにしました。

少しでも不安や悲しい思いをする時間を減らしてやりたくて。

それでも雰囲気で察していたように思います。

かわれるものならかわってやりたい。かわってやりたかった。

※書くか迷いましたが、娘が傷ついてしまった話です。
参考娘の小児がん治療で病院への不安と不満の話-問題提起-

娘の白血病は再発し、2度の骨髄移植を経験しました。

しかし、いずれも定着には至らず、体力も少なくなってきて、再移植はできなくなりました。

※このときに感じた骨髄移植制度と、ドナーさんへの費用について思ったことを別に書きました。
参考白血病の骨髄移植とドナーへの費用について-娘の闘病記-

※泊り込み看病ができること、医療制度のありがたさも書き残しておきます。
参考小児がんの医療保険の必要性-白血病闘病記/体験談-

娘の命の砂時計はもう残り少なくなりました。

退院とたった2日の登校、そして再発。

骨髄移植を受ける前の話ですが、白血病治療において最初に行う治療(寛解導入療法)で寛解になり、がん細胞を更に叩く化学療法を経て退院できました。

このまま1年、2年と再発しなければ、娘は治ったことになる。

他の子たちと同じような生活に戻れる、未来だってある、と心から喜んだものでした。

学校に登校し、運動や体育はできなかったものの、友達と遊べるのは本当に嬉しかったようでした。

少しずつ体力をつけて、遅れた勉強もゆっくりゆっくり取り戻せばと思っていたのは本当に、ほんのつかの間でした。

退院して1ヶ月、復学してわずか2日後、発熱した娘は体調不良を訴えました。

「まさか、いやただの風邪だ。学校ではしゃぎすぎたのだ」と私は自分に言い聞かせました。

しかし検査結果は非情でした。

……白血病の再発でした。

>>小児がんの退院後の生活と心のケア-娘のがん闘病記から-

「わたし、しぬの?」

血液中のがん細胞が増殖して薬で叩いては下がりの一進一退の病状が1ヶ月くらいあったと思います。

微熱が続き、腹痛でずっと湯たんぽをおなかに入れてうずくまって寝ることが多くなりました。

妻「アイス食べる?(病院に備え付けの共用)冷蔵庫からとってこようか?」

娘「んーん。いらない。もうしぬんでしょ?」

妻「なんでそんなこと言うの!」

娘「わたし、しぬんでしょ?わたし、しぬの?」

娘は何を思ってこんなことを言ったのか…。

そのころの娘の不調は今までにないほど、数字的にも悪かったです。

娘なりに、何かを感じていたのでしょうか。

お子さんが自分の病状を本人なりに感じ取って、大人でもドキっとすることを言うときがあるかもしれません。

とことんお子さんの不安に向き合って付き合ってあげてください。

否定しないで、とにかく聞き役に回って「そうだよね」「うん。辛いよね、痛いよね」と共感してあげてください。

できるなら手を握ったり、抱きしめてあげてください。

私にはそれができませんでした。今も後悔しています。

そして余命宣告。娘の命の期限が区切られてしまいました。
>>小児がんで余命告知された時に知って欲しいこと-家族の体験談-

治療を諦めて、娘のやりたいことを。

小児がん闘病記~白血病発病から最期まで~
余命宣告を受け、私たちには娘をもう助ける方法がなくなりました。

もちろんセカンドオピニオン(私たちの時代にはまだ一般的ではありませんでした)も利用し、多くの著名なお医者様に意見をききました。

結果はどこも同じでした。

治療を諦めなければいけないこと、それは娘が亡くなることが確実なものになったということです。

治ると信じて娘の体をいじめぬいた検査、治療の日々。

時には叱咤したこともありました(親としても必死だったとはいえ、本当に可哀想なことをしました)。

今までの日々が実らなかったことや、親として我が子を助けられなかった無念さに夫婦で抱き合って泣きました。

しかし私たちには悲しみにくれる時間は残されていませんでした。

娘の残された時間を幸せにするために、私たち夫婦は治療を諦めると決めたその日から行動しなければいけませんでした。

こちらでも思いを書いています。
>>小児がんの介護と在宅医療に思う事-白血病の娘を看取って-

娘との思い出作り

後日更新します。

最期

娘はがんの痛みが強くなり、亡くなる数日前から眠らせることが多くなりました。

呼吸管理も安定してできるということで、人工呼吸器をつけることも提案されました。

それは同時に、娘の可愛い声が二度ときけなくなるということでした。

このときの話はこちらに詳しく書きました。
>>小児がん/白血病闘病記-人工呼吸器をつけるまで-

人工呼吸器をつけてあと数日は娘と生きていけると思っていました。

しかし、その翌々日。娘は危篤状態となりました。

長期間の闘病とがんの浸潤でぼろぼろだった娘の体は限界を迎え、急に心臓が止まってしまったのです。

妻から連絡をうけて病院へかけつけたとき、主治医のT先生が娘の上に馬乗りになって心臓マッサージをしていました。

なぜこんな急に?夢じゃないか?

頭は真っ白でした。

私は娘の名を呼びながら、先生の措置の邪魔にならぬよう、娘の手足をさすることしかできませんでした。

いくら呼びかけても、呼びかけても、娘は反応してくれません。

半開きになったうつろな瞳のまま、応えてくれませんでした。

鼻のチューブから血が噴き出してきた時、「ああもうだめかもしれない…」という気持ちが胸をよぎりました。

それでも諦めることなんてできませんでした。最後の最後まで、奇跡を願って治療を見守っていました。

しかし…先生方の懸命の措置もむなしく、娘の心電図は弱くなり、最後に一筋の線になりました。

T先生が娘の目をライトで照らして生体反応を確認した後、時計をみて…告げました…。

「それではね…お父さん、お母さん…6時27分です…」

『Maki、Maki・・目をあけてお願い目をあけて・・』「Makiー!イヤダー!」

私、妻、妻の姉、祖父母が見守る中、娘は静かに旅立ちました。

最期(2)

娘を抱っこして悲しみの退院をしました。

そして…帰りたかった家に…

Maki、ゆっくり寝てていいんだよ、今日はMakiの退院祝いだよ。

沢山のチューブがなくなってすっきりしたね。もう痛い注射しなくていいんだよ。

娘の身体はいつまでも、温かくてやわらかくて。
   
表情もいつものかわいいかわいい寝顔そのまま。

そのうち起きてくるんじゃないかって…。

後悔ばかりが押し寄せてきました。

もっとやれることはなかったか、あの子の痛みや苦しみを気づいてあげられてなかったんじゃないか。

眠らせてから旅立つまで娘は何も言い残せませんでした。

何か言いたいことあったよね。いっぱいあったよね。

やりたいこともいっぱいあったよね。

ごめんね。ごめんね。

生まれたとき、「何があってもこの子を守り通してみせる」って誓ったのに。

守ってやれなくて本当にごめんなさい。

最期の日についてはこちらで少しずつ書き足しています。
>>末期小児がん(白血病)闘病記-娘が旅立った日のこと-

娘の葬儀

娘の葬儀は「葬儀」という形ではなく、「お別れ会」という形にしてもらいました。

肉親やいとこたちだけではなく、幼稚園のお友達や地元の町内会のお友達もたくさん参列してくれました。

小学校に行けたのは2日だけでしたが、小学校のお友達と担任の先生も参列して頂けました。

元気な頃はとにかく外を走り回るのが大好きなおてんばさんだったので、本当にたくさんの友達がいました。

幼稚園の皆さんがひそかに作ってくださっていた千羽鶴、保母さんたちが描いて下さったお別れのイラストとお手紙も一緒にお棺に入れました。

なじみの焼肉屋の店長「キンニクマンのおじちゃん」も参列してくださり、「せめて写真だけでも」と、焼肉の写真を棺に入れてくれました。

きっと娘はお空の上で大好きな焼肉をおなかいっぱい食べていることでしょう。

その日はとても晴れやかな青空で、きっと娘はこの青空に向かって元気に羽ばたいていったんだと、そう思いました。

さいごに

娘が生まれて、小中高と学年を経て、時にケンカや反抗期を迎えながらも元気に成長し、就職・恋をして結婚して、孫を抱く。

当たり前にできることだと思っていました。

娘の突然の発病、入院、辛い闘病生活、そして別れ。

運命の残酷さ、生きる意味をいろいろ考えさせられました。

娘が亡くなって数ヶ月は、娘の闘病の辛い姿や表情ばかりが思い出されて、本当に辛かった。

でも何年かたって、娘の笑顔や楽しかったことがたくさん浮かんでくるようになったんです。

自分も負けていられない。

最期まで笑顔で諦めずにがんばったMakiに誇れるよう、今を笑顔で生きようと思えるようになりました。

Maki、いつまでもいつまでも、愛しているよ。

一周忌に際してノートに書き残していたものを再編集しました。
>>小児白血病で逝った娘へ-永眠しました あれから1年-

同じように、小児がんで我が子を失ったご家族へ向けて書き残しました。
>>小児がんで我が子を亡くしたあとの家族と心のサポートについて。

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